「社会人」に成り立ての10年前に書いた文章達があまりにも原点回帰をするには丁度良くて、こういう時間の重ね方は歳を取ることの楽しさだと思う。

分かること、分からないこと、その線の引き方はより意図的に、この10年で許容や理解を示せる範囲は大分広がった。その反面、そうじゃ無い事への理解は、「おすすめ」ばかりがプッシュアップされる環境では、なかなか磨き上げるのは難しい部分もある。

当時使ったムービーとは違うけど、今この自分が線を引かざるを得ないそれを最後引用してこのポストを更新してみる。このリンクを貼ることが、もはやこの文脈でコンテクストされていることは読んだ人しか分からないまま。

ひとくせもふたくせもある方が世を変えられるものだ。

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君はひとくせ

http://d.hatena.ne.jp/GAS22athr/20080218

人間分かろうとも思えば何でも分かるんじゃないかと、分からないものを前にした時に生じる自分の頭の中の違和感が、徐々に無くなって分かれていって何とも言えない快感に包み込まれる時に、良く思います。

「分かる」という言葉の語源が「分ける」だったり、言葉というのを考える時に最初の方にぶつかるのが「分節化」というキーワードだったり、近代科学の根本にある思想の一つが「細分化」だったという

ことを知ると、余計にその思いがかき立てられるのです。

要するに、分かる/分からないとは、人それぞれが持つ、物事それぞれに対する意思の問題ではないか、と。

つまり、両手を上げて眉をひそめて「僕にはお手上げさ」と言って肩をすくめるのは、「もう分けるのが面倒なのさ」という意思表示なのではないか、と。

さらに言うと、「あなたは何を考えているか分からないわ」と言うのは、「あなたをもっと分けてみたいの」という、一種のアンビバレンツな感情の表れなのではないか、と。

そして23にもなって、寿司に巻くのりが裏表に分かれていたことを知って思わず年甲斐も無くはにかんで誤魔化そうとしてしまったのは、その「のり」という存在に対する今までの自分の意思が、あまりにも怠慢で軽薄だったからではなかったか、と。

今まで何かこう、理解の隙みたいなものを与えてくれるような絵や本や映画に音楽、スポーツや街や人間に魅かれてきて、恐らくこれからも一生、それは続くんだと思います。

ただ前回の話とは違って、その理解への意思がどうしても及ばないし、もうどうでもいいからそんなもの放棄したくなるようなモノやコトが、残念ながら自分には存在するということも、最後に言っておかなければなりません。

そんな中の一つを紹介しながら、今回は終わりにしたいと思います。チャオ。

 

 

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愛の事。台北。

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自分達が生きるという点において助け合いは必要でも、普段の生活におもてなしはあまりいらない。

それはいつもの事、自分の言葉も表情も失っていることにこの国に来ていつも気づかされる事。

自動車では無く自転車を選んだこの国のカルマ。

それはパンクでいながらにして、最もリベラルな道を行っているのかもしれない。

 

自己と他己承認のリフレイン。

言葉とそれらによって表現される自己と他己とのギャップに悶々としていた時間を久しぶりに思い出した。

それを経たからこその今がちょうど良いし、見えないものを見つけて形にしていくプロセスが心地よいという、ある種の健全さの中にいる。

少なくともその段階に入ってこれたという時点で、当てもない一つの旅は終わったのだと思う。

あとは、大嫌いでいつも抜け出そうとしていた形式や価値観への理解、尊敬、それらをもって表現し理解を促すこと。

これからはその旅が始まることになる。

一番辛いのが、自分たちが向かっている方向や道筋が描けない時。

そうは分かっていても良く見定めないまま当ても無く漂って体力を消耗して動けなくなる時はざら。

「ここで大事なのは、ゴールを取るための『正解』を持っているかということ。」

http://number.bunshun.jp/articles/-/785605

人生のゴールなんて何だって構わない、それでもそうだと決めてそれに動いて少しでも近づけた人と、そのゴールすら思い浮かばずサイドに張り出したまま終わった人では、どちらがよいだろうか?

 

 

昨年の1月に否が応にも触れてしまったイタリアンクラフトマンシップの在り方には、ある意味今年だけでなく、これからの自分のテーマになりそうな哲学や行動が潜んでいる。

いや、既にその時点で現れていたことを、昨年夏のベルガモで否が応にも思い知った。そしてイタリア北部の工業地帯で「グローバリゼーション」の力と拮抗を張ろうとするその人の強さに感動して、不覚にも本人の目の前で涙しそうになった。

価値とは何かということにおいて、これほどまでにシンプルでダイレクトに訴えかけるものはない。

一方で、大量生産品に必要以上に価値をつけようとし、実体の無いものにさらに実体の無い価値を上乗せしようとする人がその歴史と共にある。そこから結果として素晴らしい想像力も生まれている。だから否定することはないし、自分の今の仕事もその一端であるからなおさらのこと。

この時代に人が感動するモノを作る、送る、売るとは何なのか。

社会の間に潜むこれらを科学して形にする。それをできる限り大きくする。

これがこれからの自分のテーマになる。

Nevi Factory Visit (6)

 

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役割を演じる。

その役割を演じられる単純明快さとナルシシズムを持つ者だけに与えられる権利。

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複雑性はいらない。そのキャプションとコーニーなラインに従うかどうか。それが(もしあるのだとすれば)信念に叶うのかどうか。

そんなものはとうに忘れたならそれで誰も世話は焼かない。

目に見えるものが、80%の人間のその全てであり信ずべきものだから。

目に見えるものを。残りの20%は世界を動かさない。ただ役割を演じる。

複雑性などそこには与しない。

それを疑うことよりも、それを信じる方が楽であり楽しいから。